桂庵玄樹顕彰会

500年祭に向けて

 ─鹿児島県知事・阪本釤之助の祭文と400年祭─   東  英寿

 500年祭に向けて
毎年7月15日、鹿児島市伊敷にある桂庵公園で6月灯が催される。桂庵公園は、けいあん桂庵(1427~1508)が晩年に居を構えたとうきあん東帰庵の跡で、彼の命日が旧暦の6月15日なので、現在はひと月遅れの7月15日に6月灯が行われている。桂庵公園には桂庵の墓があり、普段桂庵の位牌は鹿児島市草牟田の光明禅寺に祀られているが、この日だけは桂庵公園に隣接する、桂庵墓の墓守・上野清治氏宅へもたらされてそこで供養される。あわせて、上野氏宅に所蔵されている桂庵のちんぞう頂相(肖像画)が、一年に一度この日だけ開陳されることになっている。
 桂庵は、応永34年(1427)から永正5年(1508)までを生きた臨済宗の禅僧で、字は玄樹、号は島陰、または海東野釈と言い、元々は周防山口の人であった。応仁元年(1467)その詩才が認められて遣明使の一員として中国・明に渡り、文明5年(1473)までの7年間、当時の最新の朱子学を学んで帰国したが、都は応仁の乱のため、戦乱を避けて石見に移り、豊後、筑後、肥後等を歴遊し、文明10年(1478)島津忠昌の招聘に応じて薩摩に赴いた。翌年からは忠昌が桂庵のために開創した桂樹院(島陰寺)に住し、この地で盛んに朱子学の講説を行った。その後、桂庵は日向飫肥の安国寺に住し、日向と薩摩を往還した。文亀2年(1502)に薩摩の伊敷屯に東帰庵を結んで隠居し、ここで没した。82歳。桂庵の学統は、安国寺のげっしょえいじょう月渚永乗、龍源寺のいちおうげんしん一翁玄心、大龍寺のぶんしげんしょう文之玄昌と継承され江戸初期頃まで栄え、さつなんがくは薩南学派という漢学史上の一派を形成した。
 桂庵は、永正5年(1508)6月15日、82歳で没したので、2008年は500年祭(500周忌)を迎えることになる。500年祭と聞いてもピンとこないであろうが、実は桂庵400年祭(400周忌)では、盛大に供養され、時の鹿児島県知事・阪本さん釤
のすけ之助が桂庵を偲んで祭文を作成している。以下、まずその全文を掲載して、それに従って桂庵を紹介し、500年祭に向けての資料を提供したい。
          *
維時明治四十一年六月十四日、鹿児島県知事阪本釤之助、以清酌庶羞之奠、謹祭碩徳桂菴禅師之霊曰、嗟呼師乎道学之祖、本邦文教、頼師扶樹。詎図半生託身麑府、豈期千古埋骨南土。憶昔室町氏文教耗涸、師在禅門、志存濂洛、慨然立志、超海飛躍。明主賞賚、諸儒結託、研鑽七年、業成奥博。遭時乱離、京師騒然、寄蹤西海、抱負不伸。薩侯優招、矜式一藩、為侯講道、授経尚文、洋洋礼楽、政教維新、大学繍梓、入徳之門、風流吟哦、咳唾是珠、四書施訓、恢宏規模、門下桃李、文采優殊。彼徳川氏、学重程朱、有源有因、師実先駆、豈啻薩藩邦家之誉。晩年棲遅、城西有宅、菴名東帰、以老以寂、三尺残碑、哲人窀穸、物換星移、漸與世隔。卓矣伊地知氏、表章竭誠、天保之末、修墓披荊、一齋藤子、大筆作銘。中外多事、香煙不騰、雨淋日炙、苔封垣傾。余之不才、県治攸司、竊謂文教是国之基、来拝墓下、低回久之、屈指遙遙、四百閲歳、追遠之典、豈可懈怠、茲與同志、蘋繁循礼。嗟呼師之高懐、霽月光風、是儒與佛、八面玲瓏、闡幽揚輝、後人之忠、辞則有尽、情則無窮。尚饗。
          *
 この祭文は、時の鹿児島県知事・阪本釤之助によって明治41年(1908)6月14日、すなわち桂庵400年祭の式典で披露された。阪本知事は作家・高見順の父で、永井荷風の父方の叔父でもある。知事自らがこうした祭文を作成することは、桂庵に対する当時の鹿児島の人々の敬慕の情を代弁するものであったと考えられる。
 祭文では、桂庵は道学(朱子学)の祖であり、我が国の文教は桂庵によって打ち立てられたこと、桂庵は図らずも人生の半分を薩摩で過ごし、この南の地に永遠に骨を埋めようとは思いもよらなかったであろうと述べた後、応仁元年(1467)遣明使の一員として中国・明に渡ったことについて「憶昔室町氏文教耗涸、師在禅門、志在濂洛、慨然立志、超海飛躍。明主賞賚、諸儒結託、研鑽七年、業成奥博」と記述する。その昔、文教が衰えた室町時代、桂庵は禅門にあり、その思いは周敦頤や程顥、程頤の朱子学者達がいた濂渓や洛陽に及び、志を立てて海を渡った。中国・明の憲宗皇帝に面会し褒美を受け取り、多くの儒者達と交わって文明5年(1473)までの7年間滞在し、当時の最新の朱子学を学んだのである。このように多くの研鑽を積んだ桂庵が帰国したところ、祭文で「遭時乱離、京師騒然、寄蹤西海、抱負不伸」と記載するように、都は応仁の乱で桂庵は志を果たすことができず西国を巡遊していた。その時、島津忠昌によって薩摩に招かれ、文明10年(1478)2月に薩摩に到着し、以後この地で中国で学んできた朱子学を講じた。朱子学は南宋のしゅき朱熹(1130~1200)によって大成された儒学で、我が国には平安末から鎌倉初期頃に伝えられて次第に広まり江戸時代には官学となって大いに流行し、江戸幕藩体制を維持する思想的支柱となった。かんせいいがく寛政異学のきん禁の発令により、朱子学以外の学問が禁止されたことからも、江戸幕府における朱子学重視の程がわかるであろう。この朱子学の書籍を、我が国で初めて刊行したのが桂庵で、薩摩の地においてであった。それは、江戸時代を遡ること百数十年前の文明13年(1481)のことである。この時、桂庵によって刊行されたのは『大学章句』で、刊行された年号を取って『文明版大学』と言う。その版木が磨滅したので延徳4年(1492)に再刊したものを『延徳版大学』と言う。ちなみに、『大学章句』とは、初学者が道徳を学ぶための入門的書物で、江戸時代では士人教養の必読書となり広く普及したのである。
 後に、桂庵の存在を知った、門弟3000人とも言われる江戸の大儒・さとう佐藤いっさい一齋(1772~1859)は、「今を距つることまさ適に三百六十餘年、因りて本邦の新註を刻するこうし嚆矢爲るに驚く」(「題延徳版大学鈔本後」)として、薩摩の地で我が国初めての朱子学書籍が刊行されたことを知って驚いた。佐藤一齋は、幕府直轄のしょうへいこう昌平黌で講説し将軍・徳川家斉をはじめ多くの名君から尊崇された当時の儒林中の泰斗であった。その彼が薩摩の先駆性に素直に脱帽したことからも、桂庵の業績の偉大さは十分に窺い知れるであろう。
 また、祭文にある「四書施訓」とは、桂庵点と称される訓点法を広めたことを指す。朱子学の書籍を刊行しそれに基づき講説しようとしても、その内容を人々が読解できなければどうしようもない。そこで、桂庵は師であるきようほうしゅう岐陽方秀の訓点を承けて創出した施点法(桂庵点)を用いて教授したのである。それ以前の訓読法が代々博士家に伝わる秘伝的性格を持つものであったのに対して、桂庵点は啓蒙的でわかりやすかった。この訓点法に裏打ちされて桂庵の講説は広まったのである。
 「彼徳川氏、学重程朱、有源有因、師実先駆。豈啻薩藩邦家之誉」という祭文の記述は、徳川氏は朱子学を重んじたが、その淵源は百年以上前に既に桂庵によって薩摩で朱子学が花開いていたことにあり、従って桂庵の業績は先駆的であり、ただ薩摩藩だけの誉れではない極めてすばらしい偉業だということである。
 「卓矣伊地知氏、表章竭誠、天保之末、修墓披荊、一齋藤子、大筆作銘」に言う伊地知氏とは、伊地知季安(1782~1867)のことで、江戸後期当時世間で全く忘れ去られていた桂庵を、いわば発掘し歴史の表舞台に登場させた人物である。季安は桂庵の墓を修復し、江戸の佐藤一齋に働きかけ、碑文を完成させた。ここで伊地知季安について、簡単に経歴を見ておきたい。
          *
 伊地知季安は、初名を貞行、または季彬と言い、字は子静、通称は安之丞で後に小十郎と改め、号は潜隠、または克欽と言う。天明2年(1782)4月11日に鹿児島で生まれた。伊勢八之進貞休の次子で、享和元年(1801)20歳の時、伊勢家を出て、伊地知季伴の養子となり、伊地知家を相続する。文化5年(1808)27歳の時、ぶんかほうとうじけん文化朋党事件(俗にきんしろくくず近思録崩れ、あるいはちちぶくず秩父崩れ)と言われる政変に連座して、翌文化6年(1809)正月に喜界島へ流謫される。
 喜界島の島民は、季安に学問のあることを知り、小庵を結んで、そこに住まわせ童蒙教育の師とした。この小庵に潜隠と名付けたのが彼の号・潜隠の由来でもある。この島での生活について西村天囚『日本宋学史』の伊地知潜隠伝には、
  
  時に秩父太郎の近思録崩には、潜隠も亦其の党與に坐して禁錮せられ、文化六年正月  喜界島に謫せらる、時に年二十八なり、島民潜隠の学問あるを知り、為に小菴を結び  て之に居らしめ、以て童蒙の師と為しければ、其の菴に名けて潜隠と曰へり、是れ其  の別号の来由なり、薩摩の学者に流人多く、謫居中に学問して学力長進せし人なきに  あらず、蓋し薩摩の群島は琉球との交通に因て蔵書の家なきに非ずとぞ、潜隠も亦童  蒙に教授すると共に、自ら学ぶ所の者ありしなるべし。

と記述し、薩摩の群島は琉球との交流により種々の資料がもたらされていたこともあって、季安の喜界島での生活は彼の学問に益するところがあったようである。謫居3年後の文化8年に赦書が下り、翌9年には鹿児島に帰ったが、その後5年間は禁錮を命ぜられ、文化13年(1816)9月29日にやっと禁錮を解かれる。しかし、その後66歳までの約40年間無役で蟄居していた。その間、彼は資料の収集、文献の精読・考証という地道な研鑽を積み、その過程で桂庵に関心を持ったと思われる。季安は当時既に入手困難であった『延徳版大学』を探し出し、更に我が国で初めての朱子学書籍が他ならぬ薩摩で刊行されたことや刊行者である桂庵が全く世の中で注目されず、埋没していることに気づいた。そこで、桂庵を世の中に知らしめ、正当な評価を受けさせねばならないという使命感を抱き、桂庵の墓を修復し佐藤一齋に碑銘作成を働きかけたと思われる。既に見てきたように、一齋は幕府の儒官に抜擢され、昌平黌で講義をした学術・徳望ともに優れた大儒であり、季安にとっては雲の上のような存在であった。もし一齋が桂庵の碑銘を作成してくれれば、それは季安にとってこの上のない喜びであろう。果たして季安の熱意が通じ一齋は桂庵の碑銘を作成した。一齋の碑銘を刻んだ石碑は、現在桂庵墓の横に建立されている。
          *
 さて、阪本釤之助知事が祭文に「余之不才、県治攸司、竊謂文教是国之基、来拝墓下、低回久之、屈指遙遙、四百閲歳、追遠之典、豈可懈怠、茲與同志、蘋繁循礼」と記述するのは注目すべきである。阪本知事には、文教が国の基礎であり、400年祭の供養は決しておろそかにすることができないという思いがあった。彼が力を入れた桂庵400年祭について、明治41年6月16日付けの『鹿児島新聞』では、次の如く記載する。

  阪本知事の司会に係る島陰先生桂庵禅師の四百回忌祭典は、いよい愈よ十四日の日曜日を
  以て鹿児島郡伊敷村上伊敷字梅ヶ淵の東帰庵故址なる禅師おくづき奥津城前に挙行されぬ。桂  庵祭や我が県ありて以来、出色の企画なりしだけに参列の人々、会場の格好、祭事の  施設等亦た何等かの特色を帯びたるものゝ如く極めて趣味あり、光彩あり、韻致あり、  感興ある会合すこぶ頗る盛典なりき。………国道筋右手仮屋小路口の国旗交叉緑門清々し き辺より入りて東帰庵の跡上野長次郎宅地に到れば、市来正幹氏門口に於て懇切に案内し  参列者は屋内屋外の控所に就く。此間禅師の遺徳を談ずる者、宋学の由来を説く者など話  柄は自づから故人の身辺を離れざりしが、万般の準備は阪本知事司命の下に市来政幹、東  武七の両氏外数氏斡旋されしだけありて質素の施設能く行き届けるが如し。祭前に於て殊  に一般の注意を惹きしは長次郎宅の床間に懸れる禅師の肖像幅及び近藤中軒氏模写の同  幅に山田準氏の賛せしものなりし………此日祭場の光景、若くは附近の状を視んとて集  まる者、学生始め伊敷村民等少からず。時ならざる賑ひを呈せしが禅師も定めて地下  に満足せしとなるべし。

 桂庵400回忌(400年祭)の式典が「我が県ありて以来、出色の企画なりし」と記載され、しかも阪本知事の指揮のもとに、市来政幹、東武七が中心となり万全の準備がなされたことからも県を挙げての催しであったことが窺える。参列者は、桂庵の残した徳業や朱子学(宋学)の由来などを語り合い、学生や村民も多数駆けつけ、大賑わいで活況を呈していた。この記事の中で「長次郎宅の床間に懸れる禅師の肖像幅及び近藤中軒氏模写の同幅に山田準氏の賛せしもの」という記述に注目したい。「長次郎」とは桂庵墓の墓守・上野長次郎氏のことである。現在の当主・上野清治氏の祖父に当たる。「床間に懸れる禅師の肖像幅」とは、上野家に伝わる桂庵の頂相(肖像画)のことで、現在も年に1回、7月15日に開陳されている。これを入れる箱の蓋裏にはこの頂相の由来が書き付けられている。それによると、この頂相(肖像画)は「桂菴和尚写真図」と言い、伊地知季安が大山等雪(?~1849)に画かせたものである。大竜寺所蔵の秋月等観筆の画に倣ったと言う。日付は、天保11年(1840)仲秋下澣とある。一方、今一つの「近藤中軒氏模写の同幅に山田準氏の賛せしもの」は、現在上野氏宅には伝わっておらず、その行方は不明である。
 更に、明治41年6月16日付けの『鹿児島実業新聞』では、桂庵400年祭について以下のように記載する。

  祭礼は阪本知事の主催に係はり、国道筋入口にはアーチを設け、国旗を交叉し、禅師
  の墓守たる上野長次郎の前庭にはテントを張り椅子を置いて参拝者の休憩所にあ 宛て、
  どう仝室内には上野家の家宝として蔵せる禅師の画像を掲げて香を備へ、更に墓碑前には
  供物、香を備え、式は午前十一時祭主ママ坂本知事の祭文朗読に始まり、尋いで山田造志
  館教授の祭文朗読、津隈宏氏の詩歌捧呈あり。知事始め参拝者一同順次焼香参拝あり
  て、式は極めて簡単におわ畢り参拝者一同は休憩所に集り、阪本知事の挨拶あり。その大
  要に曰く、我国朱子学の泰斗として我国文学に貢献すくなか尠らざる桂庵禅師の墳墓の地に任を
  受けしは余の光栄とする処、禅師の余徳を表彰するは余輩の任務たるべく………斯くて参拝者は
  室内に或はテントの下に寿司に瓶酒を酌み交わしつゝ、禅師の徳を頌したり。
  会場は質素なる百往家祭典も亦極めて質素にして、参拝者亦当市に於て儒学に志ある人の
  談は始めより終りまで禅師の功蹟談にて、その余徳を慕ふの情は満ち充ちまことにふ 相
  さ 應はしき祭典なりき。参拝者は各自名簿録に自著して散会せり。

 国道から桂庵墓へ入る入り口には、アーチを設け国旗を交叉させて飾り付けをし、墓守の上野長次郎氏宅の前庭にはテントを設営し椅子を置いて参拝者の休憩所するなどの当時の式典会場、更に室内やテントに集う参拝者が寿司を食しつつ酒を酌みかわし談笑している具体的な様子を窺うことができる。阪本知事が桂庵禅師の墳墓のある鹿児島に、その任を受けたことを「余の光栄とする処」と述べることからも、知事の桂庵に対する強い思いが窺えるのである。
 この400年祭の後、昭和38年(1963)には455年祭が行われている。「桂庵禅師史跡顕彰会発起人一同」が出した「桂庵禅師史跡顕彰事業について(四百五十五年祭に因んで)」という文書が残っている。「一世の碩学桂庵禅師が伊敷町仮屋の東帰庵に没してより今年はちょうど四百五十五年目に当ります」という書き出してはじまり、桂庵の業績の説明が続き、最後に以下のような記述で結ばれる。

  伊敷が誇る、これほどの史跡を私どもは今まで余りにも身近かにありすぎたために、いささか等閑に付していたきらいはないでありましょうか、創造のない伝統が空虚であるならば伝統のない創造は盲目でありましょう。古きものを尋ね、そして新しきものを求めてゆく姿こそは二十世紀の宇宙時代に生きる私どもにとってもまた決して無  縁のものでないことに思いを致し、志を同じくするもの相つどい、左記による桂庵禅  師史跡顕彰の事業を起し、私ども子弟教育振興の一端とするとともに教育環境の改善  を図らんとするものであります。
  ねがわくば町民各位の理解ある、ご協力を切にお願い申し上げる次第でございます。
   昭和三十八年夏
  一  行事
     七月十五日六月灯 午後五時半より
     同日 伊敷小学校児童による楽器合奏
           池ノ坊生花展示
           児童作品展示
  二  事業
     桂庵児童公園の完成
     その他
 
 桂庵没後455年を記念し、桂庵禅師史跡顕彰事業の一環として、桂庵の墓がある現在地に桂庵児童公園が竣工されたことがわかる。
 400年祭における阪本知事の祭文作成をはじめとする県の周到な対応や455年祭の桂庵児童公園の完成など、これまでも節目ごとに桂庵の顕彰行事は行われてきた。伊敷町内会では、2008年の桂庵500年祭(500周忌)に向けて、その準備を始める予定だということである。400年祭での県当局を挙げての対応等を考えれば、ただ町内会だけにとどまる問題だけではなく、県も力を入れて幅広く桂庵の500年祭に向けての顕彰活動に取り組む必要があるのではないだろうか。薩摩で果たした桂庵の偉大な業績は、決して等閑視できず、是非とも顕彰して語り継がねばならないものだからである。
 本稿で提出した資料が2008年の桂庵500年祭の一助となることを願ってやまない。



Posted by Akira Toigami at 13:44│Comments(0)
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
500年祭に向けて
    コメント(0)