桂庵玄樹顕彰会

桂庵玄樹(応永34年(1427年)~永正5年(1508年)

 

室町時代五山の禅僧で薩南学派の祖である。

周防の国の山口生まれで,9歳のときに京都に上り臨済宗の南禅寺で修行し,後に豊後(大分県)の万寿寺に入った。

40歳のときに明に渡り,7年間滞在し,朱子学を修めて帰国した。当時,国内は応仁の乱の最中で玄樹は,乱を避けて下関の永福寺に入り,その後,豊後,筑後,肥後を転々とした後に,島津忠昌の招きで1478年に鹿児島に入った。

鹿児島では田の浦の島陰寺に入って島津氏をはじめ家臣,僧侶たちに朱子学を教えた。1480年に大学章句という国内最初の朱子新注本を出版す,朱子学を正しい儒学として広めた。

その後,飫肥(宮崎県)の安国寺や,京都の安国寺で朱子学を講じ,京都の建仁寺139代管主となった。

晩年には薩摩に帰り,伊敷に東帰庵を結んで隠棲し,82歳で亡くなった。玄樹の墓は,伊敷町の電車終点から北西へ約300M,庵の後ろの山にある。

国道3号線右側に「桂庵公園入口」の標識が立っている。
 

先日、おもしろい講演会を聞きました。鹿児島大学法文学部の東英寿教授の講演であります。「桂庵がいたからこそ、薩摩の学術の基盤がつくられ、明治維新を成し遂げた偉人たちもそこから生まれた」ということであります。これだけの評価であるならば、もっと県民から崇敬を受けてもいい存在ではないかと思うのであります。
 桂庵について少し紹介しますと、桂庵は、一四八一年に「大学章句」という朱子学の書籍を刊行します。これを発行された年号をとって「文明版大学」といいます。後の延徳年間にもう一回発行されまして、これを「延徳版大学」と呼んでおります。大学というのは、いわば人間修養の教科書と御理解いただければよいかと思います。
 この一四〇〇年代に発行された本を三百六十年後に薩摩の漢学者伊地知委安が発掘し、当時の日本国全体の儒学の大家、江戸の佐藤一斎に送り届け、江戸時代よりはるか以前に日本初の朱子学が花開き、その先進地であったことに江戸側で驚くことになります。
 この佐藤一斎の手によって江戸幕府の学問を支配していた「はやしけ」、「林家」と書きますが、林家でも書き写し作業が行われました。その後、この幕府の学問所昌平黌に納められまして、現在は内閣文庫へと入っております。
 朱子学は、人のあり方を説いており、江戸幕府の思想の基盤とされ、幕府で朱子学以外の思想は禁止になります。こうして朱子学は、日本の道徳律を形成する原形になり、これが今の日本人の道徳観念にも伝わっているのです。
 ですから、江戸の佐藤一斎にしてみれば、朱子学は自分たちが最先端と思っていたのが、薩摩の桂庵玄樹の存在により、日本の朱子学は、薩摩が先進地だったと認めざるを得ない状況になったのであります。これは明治維新の次に鹿児島が脚光を浴びるべき最も輝くべき時代であったのではないかと思います。
 もう一つ、この桂庵の大きな業績は、音読を多用して、従来は置き字として読まなかった漢字も生かして訓読法を考案したことであります。これは現在の漢文の授業の漢文の訓読法にもつながっております。
 桂庵の発明した訓読法を「桂庵点」と呼んでおります。「てん」は点数の「点」という字です。この「桂庵点」が、桂庵の学術を受け継ぐ文之玄昌に伝えられ、後、「文之点」という名前で訓読法が広く普及したのであります。
 ここでもう一つ人物が絡んでくるのですが、江戸時代初期の儒学者で、徳川家康にも直接講義をした藤原惺窩という人物がおります。この人物も江戸におりまして、自分なりの漢文訓読法の「惺窩点」というのを考案しました。この藤原惺窩が鹿児島に来たことがございます。漢文の本を求めに中国に行く途中に暴風雨に遭いまして、山川に漂着したのであります。この山川の滞在中に地元の僧が「桂庵点」にのっとって朱子学の書を読んでいるのを聞いたのであります。
 この唱え方こそが自分の求めている訓読法であると実感しまして、中国まで渡る必要はないということで、その書物を求めて江戸に帰ったそうであります。藤原惺窩は、「桂庵点」をさらに発展させ、「惺窩点」をつくり、それに基づいて幕府で講義を行い、信任の厚い人物になったということであります。
 この一件を見ても御理解いただけますように、桂庵のつくった訓読法が、後年の江戸の学問の世界にも影響を及ぼしたことになります。極端な話、桂庵のつくった訓読法によって、江戸は言うまでもなく、薩摩でも訓読が広まり、偉人を輩出した土壌は形づくられたのであります。漢学の素養のある西郷も大久保も、こうした薩摩の土壌の中から生まれ出てきたものと考えます。桂庵と明治維新、その時代の差は四百年にもなりますが、桂庵がいてこそ明治維新があったと言えるのかもしれません。
 この桂庵の墓につきましては、昭和十一年九月三日に国の指定遺跡にされております。桂庵が亡くなって間もなく五百年になりますが、この桂庵の墓を四百年以上にわたって守ってきたお宅が伊敷にあります。現在の当主は上野清治さんであります。
 今は住宅街となっている伊敷も、桂庵が鹿児島に来たころは、城下町から離れた近在と言われた田園地帯の農村。もうそのとき八十歳を超えていた桂庵は、夕方ごろたまたま伊敷を通りがかり、そこで体調が悪くなって、山腹に人の家の明かりを見つけて上野さんの御先祖宅を訪ね、そこで事情を知った上野さん宅の御先祖が手厚い看護をして、無事に回復。それがきっかけで伊敷の地にとどまることになり、「東」に「帰る庵」と書いて「東帰庵」をつくり、伊敷の人と交わりながら生涯を終えたそうであります。
 四百八十年にわたってこの上野家は桂庵の墓の墓守をしてまいりました。一九〇八年のときには「四百年祭」が行われまして、漢学に詳しい当時の阪本釤之助知事が参加したということであります。
 「四百年祭」のときの記録は、つい最近まで上野さん宅に残っておりましたが、八・六水害で裏山が崩れて上野さん宅も崩れ、そのときに資料がばらばらになってしまったという残念な結果であります。
 さて、三年後になりましたこの二〇〇八年の桂庵没後五百年の前にして思うのですが、桂庵玄樹は、「国語の神様」、「漢文の神様」としての尊敬を残していいほどの功績を残しております。だが、県民にはまだ十分知られていないと感じます。教育委員会としてもこの桂庵玄樹についての副読本や生涯学習講座で取り上げたりするなど、五百年に向けて、功績を広く県民に広めるようにしてほしいと思います。


Posted by Akira Toigami at 06:52│Comments(1)
この記事へのコメント
桂庵玄樹500年祭の期日について教えていただきたい。是非出席したいので、ご連絡いただきたい。
連絡先
〒753-0824
山口市穂積町3-33
上村 清美
℡083-925-5239(ファックスも同じ)
Posted by 上村 清美 at 2008年01月29日 11:47
 
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